最優秀賞3作品-③

 死にたくなるほど頑張るな
                     兔  

 こんにちは、初めまして。兎です。自己紹介をします。わたしは心と体がみんなと違う生き物です。ソレに気づいたのは幼稚園児の時でした。

 わたしは自分のことをずっと男の子だと想っていたんですが、女の子だと知った時はとてもショックでした。

 わたしのように心の性別と体の性別が一致しない人をトランスジェンダーと言います。

 スカートやフリルやリボンがついた女の子の服を着させられるとフラストレーションが溜まるので、子供の時から異性装をして暮らしています。

 異性装とは男性が女性の服を着たり、女性が男性の服を着たりすることです。男の子の服を着ることでストレスを最小限に抑え、メンタルを安定させているのです。

 メンズの服を着るのが一番落ち着くのですが、ボーイッシュなデザインの服ならなんでも大丈夫です。

 わたしは幼稚園児、小学生、中学生の時にいじめに遭い、大人になってからもいじめが続いています。現在進行形のいじめは克服している最中なので、すでに克服した解決済みのいじめについてお話ししたいと想います。

〈幼稚園時代〉

 同じクラスに意地悪な子たちがいて、よくモノを壊されました。一生懸命作った工作を壊された時は幼稚園に行くのが嫌になってしまい、幼稚園に行きたくないと泣きながら母に訴えたのを覚えています。

 その時は母が間に入ってくれ、幼稚園の先生に事情を話してくれました。ソレ以降は作品を破壊されることはなくなりました。意地悪はされ続けましたが。

 私はまだ幼くて、相手が複数だったので、独りで背負い込むことはせずに、大人の力を借りて克服しました。

〈小学校時代〉

 小学校に上がると、トランスジェンダ―であることを理由にいじめられるようになりました。

 わたしのように男の子の格好をして学校に通う女の子は非常に珍しかったので、わたしの噂は他校にまで知れ渡りました。

 他校の男子生徒たちはわたしのことを男女と呼び、登下校中の通学路や放課後の公園で会う度に罵倒してきました。

 誹謗されるだけなら我慢できるんですが、暴力を振るわれてケガをすることもあったのでタチが悪かったです。

 ウチは両親が不仲でケンカが絶えない最悪な家庭環境だったので、幼稚園の時のようにはいじめにあってることを相談できませんでした。

 ケガは自分で手当てして自然治癒するのを待ちました。

 だからと言って黙ってやられているのは悔しいので。6年間異性装を貫きました。どんなにいじめられても、男の子の服を着て登校するのをやめなかったです。

 小学生の頃のわたしは元気いっぱいで、負けないで戦う反骨精神がありましたが,多勢に無勢の時は逃げるのが一番です。

 集団で悪いことをする人間は仲間を増やして対抗してきます。こちらはたった独りなので、危険を感じたら立ち向かわずに引いてください、悔しくても。命の方が大事なので。

 いじめに耐えることができた理由のひとつは、仲間に恵まれていたことです。わたしの同級生や同学年の生徒たちのほとんどが、幼稚園の時から一緒に育った友達だったので、わたしのことをいじめませんでした。

 男子は「兎、一緒に遊ぼうぜ」と言ってサッカーや野球に誘ってくれ、昆虫採集やザリガニ釣りにも連れていってくれました。探検ごっこをしたり、秘密基地を作ったり、まるで男の子のように扱ってくれて感謝しています。

 女の子の友達を遊んでいると他校の生徒たちがやって来て「お前らできてるんだろう」と冷やかしてきましたが、わたしといるとからかわれるから一緒に遊びたくないと嘆く娘はいませんでした。

「バカは相手にしなくていい」と言っていつも遊んでくれました。

 早い段階で性別の不一致を自覚できたことと、トランスジェンダーであることを隠さないで正直にカムアウトしていたことも良かったかもしれません。

 幼稚園も小学校も水泳の授業があったのですが、体の作りは女の子なので、さすがに海パンは穿かせてもらえず。その時だけは我慢して女の子の水着を着ました。

〈中学時代〉

 中学1年の時、バレー部に所属していたんですが、わたしは3年生の先輩に気に入られていて、すごく可愛がってもらいました。1年の女子部員たちはソレが気に食わなかったようで、3年生が見ていない時にわたしのことを無視したり、練習中に妨害をしたり、いちゃもんをつけてきたりしました。
 わたしがトランスジェンダ―で男の子みたいな風貌だったのも、彼女たちの鼻についたんだと想います。

 3年生からあまり好かれていなかった2年生の先輩たちは、わたしがいじめられているのを知っていたと思いますが。なにもせず黙認していました。

 とにかく1年女子がしつこくて、年中ケンカを売ってくるので、とっとと部活を辞めて帰宅部になりました。いじめっ子が10人超えたら戦わないで逃げるのも勇気です。

 中学では一部の教員たちもわたしのいじめに参戦していました。授業中にわたしの悪口を言っていたと授業を受けた生徒たちが教えてくれたんです。

 ただでさえいじめに遭いやすいトランスジェンダーをバカにして笑いを取る教師など見たことがなかったので、呆れ果ててしまいました。

 わたしの悪口を言っていた家庭科の女性教師と社会科の男性教師は既婚者でノンケ、シスジェンダーと呼ばれるノーマルな人たちです。

 わたしはノーマルな人たちが怖いです。罪のない人たちに嫌疑をかけて、魔女だと言い張ってひどい拷問をしたり、火炙りや絞首刑にしてきた恐ろしい歴史を持つ人種だからです。
 魔女狩りは中世のヨーロッパで起きた集団ヒステリーですが、日本で起きているいじめ問題も魔女狩りの一種です。
 自殺に追い込むまで集団でいじめ抜くのですから。いじめる方こそ魔女だと想います。

 ここまでが、あんなこともあったよなって笑って話せるようになった出来事です。

 高校はヤンキーだらけの学校に通っていましたが、いじめには遭いませんでした。ラッキーです。

 小学生の時は私服登校だったので、男の子の服を着て登下校することを許してもらえてましたが。中学高校は男子は学ランパンツ、女子は紺ブレスカートと校則で決まっていたので、戸籍上女子に区分されるわたしは強制的にスカートを穿かされました。6年間も。

 いじめより女装させられる方がキツかったです。みんなに笑われているような気がして落ち着きませんでした。

 成長期で乳房が膨らみ始めた時はメンタルをかなりやられました。初潮を迎えた時も。わたしは男の子でいたかったので。

 わたしが大人になって、職業に就いてから経験したいじめは陰湿で、人生を狂わせるほどのモノでした。子供時代に経験したいじめなんて比較にならないくらい辛かったです。

 味方は誰もいなくて世界中が敵になりました。自分で出来る限りのことはしましたが、助けてくれる人は独りもいなかったです。

 友達だと想っていた子たちは傍観し、責任を取りたくない、巻き込まれたくないと言ってみんな逃げ。いじめに加担する子までいました。

 わたしは自分がいじめられて辛い想いをしてきたので、いじめを傍観しないようにしていました。友達の悩みを親身になって聞き、できることはなんでもしました。わたしがしてきたことと真逆のことをされ、こんな仕打ちをするような子たちを救おうとしていたのかと想うと、自分が情けないです。
 ソレ以来、人とどう向き合っていけば良いか分からず、対人恐怖になりました。

 信じられるのは自分だけです。

 皆さんはいじめに遭って死にたくなってしまった時、どうやって回避していますか?

 わたしは死にたくなるほど嫌なことがあった日は学校でも家でも絵を描いていました。絵を描くのが大好きだったので、いじめられる度に自分の世界に没頭していたんです。絵を描いている時はいじめっ子たちのことを忘れることができました。

 大人になってからはただ絵を描くだけじゃなく、イラストの公募に応募しています。公募サイトを検索すると、マスコットキャラクターのデザイン募集やイラストコンテストの募集がたくさん掲載されているので、その中からわたしが参加できそうなコンクールを選んで作品を描いています。

 いじめ・自殺防止コンクールも公募サイトで見つけました。
  
 作品が完成したら〆切までに応募して、結果発表を待ってる間に次の公募作品に取りかかります。公募の検索、作品の制作、結果発表待ちをエンドレスリピートして、自殺する時間を作らないようにしています。

 それでも死にたくなっちゃう時は、部屋の明かりを真っ暗にして布団の中に潜ります。狭くてあったかい布団の中は胎教によく似ているので気持ちが落ち着くんです。

 死ぬのはいつでもできるから、辛い時はとにかく寝ちゃえがわたしの口癖です。

 目が覚めたら気分が変わってるかもしれないから、死に急ぐなという意味です。いつも自分に言い聞かせています。

 わたしはうつ病で、ずっと頑張れるかは分かりません。もしかしたら自殺をしてしまうことがあるかもしれないけれど、なにも努力をしないでただ死ぬことだけはしたくないから、絵を描き続けています。

〈いじめられっ子の皆さんへ〉

 たった一度しかない人生です。

思い悩んで苦しむより、好きなことを見つけて楽しい時間を過ごしてください。推し活でもハンドメイドでもなんでもいいです。

 独りで悩んで死んじゃう前に、夢中になれることが見つかるといいですね。

 あなたたちの幸せを心から願っています。

〈最後に〉
 
大好きだった漫画家さんが、いじめられていたわたしにかけてくれた言葉を贈ります。

 死にたくなるほど頑張るな。

 



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